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zoom RSS 高野山・比叡山[8/20〜22]参拝の感想

<<   作成日時 : 2009/08/27 09:27   >>

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8月20日〜22日、高野山と比叡山に行ってきた。
その感想。

即身成仏の思想と他力本願の思想とは私には両立しない。
即身成仏は自分の悟り・自己の救いの道のこと、壮絶な自力解放である。
他力本願は民衆をどう救済するのかという宗教者の思想・道である。
浄土真宗の他力本願の思想についての私の理解は、
極楽浄土への道は自分の努力・修行・良い行い=自力で行われるのではなく、
ひたすら阿弥陀如来に帰依[=全面的に依存]することにより、阿弥陀如来によって救われるという思想である。
阿弥陀如来は、全ての民衆を救済することを自分の本願とする如来である。
失敗も喜びも阿弥陀如来の導きなのだから、人はそれに一喜一憂しないでひたすら阿弥陀如来の導きに身を任そうと言う思想である。

仏像と仏教の教えも考えさせられた。
ユダヤ教、イスラーム教はいっさいの偶像を認めない。
唯一絶対の真理=神は形にできないとの考えは理解できないではない。
しかし、ユダヤ教から生まれたキリスト教は偶像は認められるどころか、はん濫である。
一方、密教の大日如来は宇宙的絶対真理で実体はないのだが、人の形の大日如来像で表現される。
不思議と言えば不思議である。
また、密教ではそれらを曼荼羅図として顕現もし、それが信仰の対象ともなっている。

弥勒菩薩は、釈迦の入滅後56億4000万年後に現れ人を救う、その間は地蔵菩薩が民衆を救済するのである。
菩薩像、地蔵とも人の形で表され、人々の尊敬と信仰を得ている。
観音菩薩は、様々な姿形に変化して人々の前に現れ人々に救いの手をさしのべる。
十一面観音は11の顔を持ち、千手観音は千の手と千の目を持つまことに異形である。
これらは雄大な思想ではあるが、私には複雑で理解はむずかしい。

仏と神々の関係も少し考えた。
仏に、どうして四天王・12神将・明王などの守り神が必要なのか。
仏教が土着の神々や悪霊を従えたと言うことは、周辺の部族を統合していった歴史の反映であることは容易に理解できる。
いわば、無敵の仏が神々や部下に守られるのは、私には理解がむずかしい。
さらに、それらが信仰の対象にまでなることも私にはわかりづらい。

密教では、本尊は秘仏とされることが多い。
私は、この思想もよくわからない。
密教の加持祈祷にはシャーマニズムの影響が残り、神秘主義的である。
暗闇で行事が行われたり、燃えさかる炎の中に護摩を投げ入れ、集団的にお祈りしたりは、
土着・原始宗教の名残と同時に集団的陶酔に誘い込む秘事のようにも感じる。
また、教えは師から弟子へ秘事的に伝えられると言う、そうした神秘性から秘事・秘仏となるのか。
だが、私は民衆に見られてこその仏像だと思うのだが。
仏像と写真撮影の問題はいつも考えさせられている。
どうして写真撮影してはいけないのか、納得いく説明がないと思う。
版権に関わるというのは、何とも下世話的で、拝金的すぎる。

法然・一遍・栄西・親鸞・道元・日蓮など皆この比叡山で若い頃修行した。
そして彼らは、下山し新しい宗派を起こして行った。
それは当時仏教を学ぶ場が少なかった事情もあるのかもしれない。
それ以上に密教の教えに満足できず、疑問や批判を感じたのだと思う。
それは、釈迦の修行の追体験の意味もあったように思う。
だが、一番の問題は、自己の悟りの問題と苦しむ民衆をどう救済するのかと言う矛盾であったと思う。
                            

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